【Shinmei】(シンメイ)といいます。最愛の妻、最高の娘達をもつ いいおっさんです。(ちなみに娘たちにはシンちゃんと呼ばれています。)生まれは愛知県豊田市。今も愛知県民です。ですが両親は九州なので、芯は九州男児?なのかな〜 好きなものといえば、もちろんオープンカー! それと趣味で弾き語りしてます。(作詞作曲を手掛け、全てオリジナルだよ〜)
下記では、僕がオープンカーを好きになったきっかけ・エピソードや、僕が弾き語りを始めたエピソードなどを載せています。 よろしければ、読んでいってくださいませ〜( ^ω^ )
オープンカーが好きだ。 僕は、車は嫌いではなかったが所詮は消耗品だと思っていた。 小さい頃はカウンタックに憧れたが、『こんな車に乗れる訳ないじゃん』と、周りの大人達の乗っている車を見て思う、どこかませたガキだった。 だから、大人になってもその考えは変わらず、最初に買った車は屋根の高い少し荷物の乗る三菱のミニカトッポという軽自動車だった。 ちょっと贅沢をしてターボ車を買ったので、その速さに驚いたものだ。 その頃の三菱のターボ搭載軽自動車は【ドッカンターボ】と呼ばれていたらしい。車は消耗品だと見栄を張っていたが、この車が本当によく走ってくれて、ドライブを楽しませてくれた良いパートナーだった。 話はそれたが、要は自動車は消耗品で、使い勝手がいいものが良い。なので、スポーツカーに乗っているのは、こんな言い方悪ですが「あほだ」と思っていた。(若かりし頃のガキの戯事とお流しくださいm(_ _)m ) 荷物も乗らず人も乗れず、おまけに狭い。ましてやオープンカーなんて本当に何の役にも立たないじゃないか・・・と 兄が車を買った。 中古だが、濃い緑色の初代【マツダ ユーノスロードスター】だ。 シートは明るい黄土色?の革張りシート。 屋根の幌は黒のレザーかな・・・ 初めて兄がその車を見せてくれた時、『心の声:かっこいい!・・・でも何で?こんな使い勝手の悪そうな車買ったのかな・・・』なんて思っていた。 しばらくして兄が、『ドライブ行こう』と僕を誘った。 僕もその時暇だったので、兄のドライブに付き合うことにした。 兄が嬉しそうに幌を開き、そして僕は助手席に乗る。 「ガチャン」 少し乾いた様なドアの金属音が直接耳に響く。 そしてロードスターは走り出した。 『・・・すげ〜・・・』 僕は感動した。 屋根が無いというだけで、こんなにドライブの世界が変わるものなのだろうか すれ違う車や歩道を歩く人たちの目が、ロードスターに釘付けになる。 何故かとても優越感に浸ってしまう・・・ この後、僕は何度か兄のロードスターに載せてもらった。 いくら乗っても飽きない。 それどころか、楽しくてしょうがないのだ。 この経験から、スポーツカー、特にオープンカーに対する考え方が激変した。 僕も『あほ』になったのだ。 その後、今の妻と付き合うことになり、そして僕は念願のオープンカーを買った。 中古だが、とても目立つ黄色の【フィアット・バルケッタ】だ。 ちなみにこの車、僕が「車は消耗品だ」と言っていた頃、一番バカにしていた車だ・・・ 最高だった。 この車はエンジンもさほど大きくなく、コンパクトスポーツオープンといったところか。 スピードも出ず、アクセル全開でもある意味安全だ。 しかし、そこがとても愛着が湧いた。 そして何といっても目立つ。 オープンにして走った時の開放感、そして優越感・・・ この車で兄と一緒にオープンカー2台でドライブに行った時のことは今でも忘れられない。 オープンカーツーリング・・・ こんなに楽しいものか‼️ そして、子供が生まれ、家事、育児、仕事もとても忙しく、イライラしていた時にやらかしてしまった。 緩やかなカーブで車がスピン。(緩やかなカーブなのにイライラからタイヤが滑るほどのスピードを出していたのだ) タイヤが滑り始めたのがわかった。普通ならアクセルから足を離すなり、ブレーキを踏むなりの対処をすればいいだけの話なのだが、イライラしていた僕は、『くそったれ〜!』とさらにアクセルを踏み、さらに滑り出すタイヤに思いっきり逆ハンを切った。 その瞬間車がぐるっと回り、電柱が左前ボンネット横にめり込んだ。 ちなみにこの車は左ハンドルだったので、運転席の前に電柱がめり込んでいる感じだ。 ボンネットから煙が上がり出した。 僕は『まずい!』と思いドアを開けようとするが、電柱がめり込んでいる影響でドアが開かない。 窓も開かない。 しかし、少し窓が空いていたので そこに手を当て外側にガラスを押し割った。 脱出だ! 『痛!・・・』 足に激痛が走る。 左足首の内側くるぶしあたりだ。『折れたな・・・』 とりあえず今は脱出しなければ、炎上でもしたら洒落にならん! 僕はどうにかその足をひきづって、窓から這い出た。 その後は僕は救急車。 車は、・・・皆様の予想通り、一発廃車です。 この車を買ってちょうど1年くらいでした。 この車に乗っている時は楽しくて楽しくて。 週末の朝はしょっちゅう太陽がのぼるかどうかの早い時間からオープンでドライブに出かけていましたよ。 オープンの季節は春か・秋かと言いますが、いえいえとんでもない。 夏はTシャツ短パンで汗をかきながら、冬は着込んで着込んで手袋もして、雨さえ降ってなければいつでもオープンで走っていました。 その後(事故った後)ですが、子供もいますし、どこの家庭でもお馴染みのワンボックスカーですよ。 数台乗り継ぎましたが、いまだにワンボックスカーです。 気付けば子供らも高校生。 でも・・・諦めません! いえ、諦めきれない‼️ 家計は、コロナや学費その他もろもろと、どこの家庭でも大半は大変なのでしょうが、うちも横並びでして、贅沢なオープンカーを買う金など当然ありません。 ということで、念願のオープンカーを買うために、よこしまな気持ちも前面に出してブログを始めることにしました。 オープンカー歴は1台。・フィアット バルケッタ 乗った期間・1年ほど 念願の2台目オープンカーをゲットするために、がんばりまっせ〜! そしてオープンカーを購入してチーム「OPEN TOURINGER」を発足した時は、是非皆様と共にツーリングしたいものです。 こんな私ですが、よろしくお願いします。 ( ^ω^ )
弾き語り履歴 22歳の頃、僕は三重県の四日市市で働いていた。 ある飲み屋でカラオケを歌っていたら 隣にたまたま座っていた方が『うちのバンドでボーカルやらない?』と お誘いを受けたので、ノリで受ける。 そして、バンドをやる中で『ギターもやれた方がかっこいいよ〜』と言われ、半ば強引にアコースティックギターを買わされる。 (その時に買ったのが、店長のちょうお勧めと言われて購入した【yairi】ギター) しかし、ちょっと触ったくらいで上手くなるわけもなく、そのままホーチ。 ところが翌年に僕が入っていた会社のアパートに新人が入ってきて、その子がアコギを引けたのだ。 僕は少しその子に習いながらギターを手にするも、数ヶ月で会社を退職。 またギターも触らなくなる。 その後は、数年間はギターは部屋の隅に置かれていた。 しかしある時、弾き語りをしている方と友達になる。 その子につられてカラオケでギターを弾きまくる。 あれは20代後半だったな〜 それも束の間、多分半年くらいで解散。 僕は結婚となる。 せっかく少しギターが弾けるからと、結婚式では定番の弾き語りを兄弟3人で披露しましたよ。 (兄と弟は僕のもらい事故になってたかも・・・( ̄▽ ̄) ) そしてまた、ギター触らず数年。 ここでちょっとした天気が訪れる。 弟の結婚式だ。 何か催し物をとお願いされたので、ここで『よ〜し、いっちょ作詞作曲してやるか!』と、1曲歌を作った。 これがなかなかの高評価でしてね〜(о´∀`о) 調子に乗るわけです。 もう一度ギターを手に、30半ばで駅前で弾き語りイベントを始める。 【Weekly Festa】 意味:毎週パーティー 真冬の1月から初め、(なんせ外での駅前野外ライブ。僕は痩せ型なので気付かれなかったと思いますが、ダルマの様に中に無茶苦茶着込んで、背中にもお腹にもホッカイロ貼って、やってたな〜。) 半年で、同じような弾き語り仲間が 登録数15名ほどになった。 毎週末は新しい弾き語りアーティストに下手くそな僕も混ぜてもらいながら、半年間ほぼ毎週末駅前でイベント続けたな〜。 しかし、場所は市役所にお借りしており、その市役所様から1本の電話。 『いや〜Shinmeiさん、すみませんが同じ場所で夜中にバンドをやられている方がいましてね。そちらで苦情が出てしまいまして。 市の決定で電源をお貸しすることができません。』 ・・・終わった。 半年で積み上げてきたものが、その1本の電話で崩れ去りました。 (まぁ最後に近くの公園を貸し切って、駅付近で住宅やお店も周りにあったので、公園の周りの住宅やお店に全て許可を取って 最後の弾き語りパーティーやってやりましたけどね) イベントも解体。 でも・・・その時に作詞作曲したものがいくつもあるので、家に引きこもってギターを弾く日々が数年続く。 そして昨今 ギターは習いに行くものだな・・・全然上手くならない・・・ と毎日『あ〜! う〜!』とジレンマに追われながらも作詞作曲もボチボチ進め、そんな中で弟にある動画を見るように進められる。 そこで僕が目にしたのは、【両学長】のお金の勉強の話だった。 そこに、『ブログ最強!』というような動画もあり、ふと思う。 『せっかく作りためたものがあるんだから、ホームページ作って公表してみようかな・・・』 と、軽い気持ちで初めて見たものの、思う様に結果も出ず、またホーチ・・・ やっぱり僕には弾き語りしかないかな〜なんて思いながら、ジモティで募集のかかっていた野外ライブイベントに参加。 そこの親ビンに気に入られてチョコチョコ誘いを受け、安城付近で弾き語る。 それはそれで楽しいのだが、週末僕のギター練習部屋で隅に置いてある機材を見るたび『せっかく扱い方も覚えたし、この機材使ったイベントでいつも「シンメイさんの音響が一番音がいいですよ〜!」って言ってもらえてたんだよな〜・・・何処かで使えるところないかな〜』なんて思っていたんです。 そんなある日、ふと久しぶりに豊橋市のホームページを覗き見る。 『また駅前で電源使える様になってないかな〜・・・』 なってない・・・ そうだよね〜、そんなに甘くはないよね〜、でもあれから8年経ってるんだよね〜 なんて思いながら、未練たらしくチョコチョコと覗き込む様になった。 すると、 『あれ? 電源使用不可の文字が消えてる・・・ もしかして・・・』 即電話しましたよ。 『電源使えるんですか?』 って。 結果は〜 オッケー!!! そんなわけで、8年経って身体がついて行くかどうか心配ですが(2022年現在、もぉ50手前なのでね・・・)、気合を入れてまた駅前野外ライブはじめましたよ! 7月から開催し、その年の12月までの約半年間。 【Weekly Festa】改め【TOYOHASHI Fes ガヤガヤガイライブ】として豊橋を盛り上げて行くべく、野外ライブを開催いたしました。 そして年が明け、2023年 駅前広場を借りるのは半年前からできるので、4月からの開催を考えて2022年の10月より予約を取り始める中、ふと思ったのです。 『自分の本当にやりたい事ってなんだろう・・・ イベンターになりたいのか?』 と。 そして仮にこのまま続けたとして、何を得るんだろうか? と。 確かに歌仲間はできました。(何故か地元ではなく少し離れた方々がほとんどでしたがね〜) でも、イベントで食べていけるわけでもなく、そして一人では色々と限界もあり、続けれてもあと数年。 続けたとして、確かに達成感はあるだろう。しかし・・・ 僕は作詞作曲して歌を歌いたくて始めたんだ。 決してイベンターになりたくて始めたわけではない。 と言う事で、イベンターとしての活動はこれにて終了としました。 もちろん、このイベントを通して音楽のことが(独学ですが) とても勉強になりました。 また外で歌うことでもとても経験を積むことができました。 そして、いろいろな音楽仲間に支えられて半年間続けられました。 全てに感謝、感謝しかないです。 m(_ _)m そして、2023年。 これからは自分の作った曲を、誰かが主催しているイベントに出させてもらってたくさん歌っていきまっせ! そして、今年2023年 50歳になる僕ですが、今年から来年にかけて何かしらの結果を出すぞ! と最後のもがきをいたしますよ〜!! (≧∀≦) そんなわけで、皆様 Shinmeiを よろしくお願いします〜 ( ´ ▽ ` )ノ
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